京町堀まちづくりプロジェクト

○都市公園の未来像 −靱公園から考える個性あるまちづくり-

江戸期から昭和30年代まで存在していた京町堀川を再生させ、人々が楽しく回遊できるまちを創り出そう、という提案です。
HTAが京町堀にあったらいいなと思うコンビニも考えました。

2007年5月に開催された「靱公園バラ祭」で基調提案を行いました。



○ テーマ 「まちを楽しむ」



1.靱公園とその界隈の歴史


2.現在の靱公園界隈

3.これからの可能性(京町堀コンビニ、京町堀川再生の提案)



1.靱公園とその界隈の歴史
● 「靱」という名の由来



靱とは本来、弓で射る矢を納める、カゴ状の用具のことを言う。

@矢がその中に納まって使用することのない平和な世の中になることを願って、豊臣秀吉が命名した。

A豊臣秀吉がある日お供を従えて市中巡視をした際、町で魚商人たちが「やすい、やすい」と掛け声をかけながら魚を売っているのを耳にして「やす(矢巣)とは靱(矢を入れる道具)のことだ」と言ったので、その言葉にあやかって靱という町名がつけられた。

など、いくつかの説がある。
fig.1) 江戸時代末期のまち割図(1845年)

● 雑魚場市場だった靱



靱一帯は、かつて三大市場の一つとして栄えていた。左の写真を見ると、木津川から続く堀が巡らされているのが分かる。
これは、商人たちが堀を掘削し、魚や乾物を運ぶみちとして利用していたためである。
fig.2) 大正12年のまち割図(1923年)

● 大阪の中心地としての靱



鎖国時代は居留地であった江之子島は、京町堀を更に西に行ったところにある。
写真中央に見られる建物は、当時の大阪府庁である。
また、市電が走っているなど、非常に発展した場所だったようである。日本で初めて歩道がつくられたという記録も残っている。
fig.3) 江ノ子島の府庁(明治9年,1876年)

● 堀と建物



中央に見える橋が今の四ツ橋筋である。
橋の奥に見える建物は、HTAデザイン事務所が入っている第一安田ビル。
堀があった部分は、現在は駐車場部分にあたる。
fig.4) 京町堀川 伏見橋から西側を見る(昭和12年,1923年)

● 残されてきた楠



江戸時代、永代浜は荷揚げ場及び市場として賑わっていた。
その頃から繁っていたと言われる楠は、何度も取り除かれそうになりながらも成長を続け、靱の歴史を見つめ続けてきた。
現在もその姿を見ることができる。
fig.5) 永代橋の楠(昭和15年,1926年)

● 靱地区の戦後1



昭和23年(1948年)にはまだ堀が残っていた。
まち割に関しては、大正時代から大きな変化はないように見受けられる。[fig.1)参照 ]
fig.6) 昭和23年のまち割図(1948年)

● 靱地区の戦後2



昭和22年(1947年)〜昭和27年(1952年)まで、靱地区は米軍飛行場として使用された。この頃から堀が埋め立てられていく。
fig.7) 昭和29年の靱公園界隈(1954年)

● 靱公園 開園当時



戦災復興土地区画整理事業の実施により、緑豊かな大公園として、靱公園がつくられた。
fig.8) 靱公園開園当時の写真(昭和30年,1955年)



現在はテニスのメッカとして有名な靱公園であるが、この頃にはサッカー場もあったという。
fig.9) 靱公園の航空写真(昭和53年,1978年)

● 靱公園 改修前



バラ園ができる前。
fig.10) 靱公園の航空写真(2005年の改修前)

● 靱公園 改修後



バラ園ができた頃。
fig.11) 靱公園の航空写真(平成16年,2004年)

出典
fig.1) 「弘化改正大坂細見図」
fig.2、6) 「西区50年の歩み」
fig.3、5、7、8、9) 「写真集 明治大正昭和大阪」(岡本良一/著 1985年)

fig.4) 西区提供資料